【わが母の記】(著:井上靖)

 

わが母の記】(著:井上靖)を読了。

 

父が亡くなってから5年。母に今で言う認知症の症状がちらりと見え始めてから、亡くなるまでの記録『わが母の記』。デイサービスや老人ホームなどが作中では一切出てこない時代の話で、兄弟や娘(“わが母”から見ると孫)たちと協力し、母の面倒を見、そして看取る。

 

現代を生きる私からすると、「ちょっと疲れちゃったから兄さん、母を数日預かってくれる?」みたないことがあったり、孫でさえも「季節が良いからウチにお祖母ちゃんを寄こしてくれて良いよ」みたいな、認知症の母の存在を疎ましがって押し付ける様子がないのが印象的だった。

 

介護サービスなどなく「自分たちで面倒を見るしかない」という覚悟がそうさせるのか、一種の諦めなのか、どちらにせよ介護に対するその心の在り方はちょっと羨ましいと思った。私は介護サービスが充実している便利な時代に生きているけれど、そこに期待しすぎていて、サービスからあぶれて自分で対応しなくちゃいけないちょびっとの事にストレスに感じてしまうだろうから。

 

認知症と言えば記憶も自分の認識している年齢もあっちに行ったりこっちに行ったり、時に頑固になったり。面倒を見てくれる娘を『世話をしてくれている他所のおばさん』だと思っているような描写があったりして。今でこそ『認知症の母が少女のような顔を見せる』『今は40代かもしれない』なんて描写はありふれているけれども、1960年代に(出版された書に)そんな風に『ただの痴呆』から一歩優しい方向に踏み込んだ見方は少なかったのかもしれない。

 

認知症の祖母の扱いが上手なのが、孫の琴子である。

私にも95歳になる祖母がいて、そんな年齢になると当然痴呆も入ってきている。デイサービスに行くとお誕生日月が同じ人と適当な日にお祝いして貰えて、家族ではお誕生日当日にお祝いしているんだけど、「この前自分の誕生日は来たのに、なぜまた祝うのか」と聞いてくる。『お祝いされる=誕生日当日』という方程式が祖母の中で成り立っていて、デイサービスでお祝いされた日も自分の誕生日だし、家族でのお祝いも自分の誕生日で、「デイサービスの日はみんなでのお祝いだから誕生日当日じゃないんだよ」と説明しても理解してもらえないし、混乱してしまうようだった。

 

孫の私からすると「もう1年経ったんじゃない?」って軽く流せば良いんじゃないの、年に2回お祝いされてそれを疑問に思ったこともそのうち忘れるんだろうしって思うんだけど、子供(私から見ると親や叔母叔父)からしたら自分の親だから真摯に向き合ってあげたいものなのかな。

自分事として当てはめてみると、琴子が祖母との関わり方が上手な理由が少し分かる気がした。

 

30年くらい経つと孫ではなく子供の立場でこの本を読むのだろうか。それとも迫ってくる老いを感じて、母の立場で…?ボケる前にぽっくりと逝きたいなとは思っているのだけど、長生きの家系だからどうだろうなあ。

 

わが母の記 (講談社文庫) [ 井上 靖 ]

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