【遠くの声に耳を澄ませて】(著:宮下奈都)を読了。
本作は12作品の短編からなる小説である。短編連作、と言えるほど大きな重なりはないけれど、見覚えのある名前が別の作品にも出てくるようなそんな仕掛けもなされていた。
【遠くの声に耳を澄ませて】の短編の中で【部屋から始まった】というタイトルの作品が心がザァッと晴れるような読後感があって個人的にはお気に入りである。
『旅が人を成長させる』というあまりにも有名な考えがある。一人旅は不安やある種の孤独の中で自分を見つめ直す良い時間になるだろうし、海外旅行に行けば異文化に触れて今までに考えもしなかった視点が身に付くこともあるだろう。
そもそも『旅』って何なのだろう。それは自分の慣れ親しんだ人や土地から物理的にかなり離れた場所を訪れることなんじゃないかとこの物語を読んで思う。歩いたことがない知らない街でも、たった3駅しか離れていなかったのならば、私たちはそれを『旅』とは呼ばないのだ。
台湾の医者にかかった依子は形ばかりの薬と「流しなさい」というアドバイスを貰う。診断による劇的な改善は得られなかったが、台湾と日本という物理的な距離が、佐和子ちゃんとも彼との距離にもなって、依子は彼とも離れても大丈夫かもしれない、そんな気持ちになった。
そうして夜、ホテルから見下ろした街並みが台湾だと気が付いた時、依子は不意にこんな気持ちを抱いて、新たな一歩を踏み出す気力に満たされていた。
どうして私はここにいるんだろう。
私のいる場所はここではないのではないか。
戸惑いではなく、もっと力強い、疑問よりも確信に似た感覚がこみ上げる。私は北村さんを流しに来た。もうここにいる必要はないと感じるのは、それが終わったからではないか。ここでなく、東京のマンションのあの部屋でもなく、どこかもっと広くて明るい場所へ踏み出していきたくなっている。(P139)
そして結末に続くこの文章。
これが、あの薬の効用だろうか。それとも、もしかしたら、この旅の。今朝、成田を飛び立ったところから始まった短い旅が、もう私を変えている。
(中略)
違う、もっと前だ。台湾に不思議な医者がいると聞いてむずむずしたときから、あるいは「むずむずします」と北京語で練習してみたひとりの部屋から、旅は始まっていた。(P140)
この『部屋から、旅は始まっていた』という文章が爽やかでいて、それでもって希望に溢れていて、すごく好きだなあと思った。胸がジンとした。どこかに旅がしたいと思ったその瞬間に自分を変えるチャンスが目の前にゴロゴロと現れるのだと思ったら、実は人生ってポジティブな事ばかりなんじゃないか、とそんな気持ちになったのである。
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