【ショート・トリップ】(著:森絵都)

 

【ショート・トリップ】(著:森絵都)を読了。

“旅“をテーマにしたショートショート集。ショートショートって短編よりも短い小説のジャンルなのだけど、私が今までに読んできたソレよりもさらに短い、気がした。1話90秒くらいで読めてしまう。そんなわけで文庫本には48もの作品が…!

 

これだけの作品があればもちろん好みの作品もあればそうじゃない作品もある。それから大きな声では言えないけれど「あれ?やっつけ仕事かな?」みたいな作品も。

 

個人的に好きだった作品は『ファンタジア』『脱サラの二人』『注文のいらないレストラン』。

『ファンタジア』は闇落ちしたミッキーが出てきてクスッとなる。あとがきに書いてあったのだけどこれらの作品は“中学生新聞”とやらに連載されていたらしく、ミッキーが出てくるということで読者のターゲット層である彼らも取っ付きやすかったんじゃないかな。

 

『脱サラの二人』は「会社を辞めて良かったことは時間に縛られなくなったことですよ。スケジュール通りの毎日なんてつまらんのです」と語り合う二人の話。会話が旅の予定に及ぶと「ガイドブックによるとこの行程で丸1日かかるのです。効率よく行かねば」やら「観光ツアーに申し込みました。1番時間の節約なりますからね」みたいな、結局のところ時間や決まった予定の制約から逃れられていないオチ。風刺が効いていて好きですね。

 

『注文のいらないレストラン』は物語の始まりからなかなか心を抉ってくる。

旅に出るのは勇気のいることと思われているけれど、実際に旅を続ける者にとって、勇気がいるのはむしろ旅を終えることのほうである。

 旅が長引けば長引くほどにその傾向は強まる。彼らが知らない国を訪れたり、言葉のちがう友をつくったり、風変わりな果実を頬張ったりしているうちにも、彼らの故郷ではその友人や家族たちが着実に日常を積んでいる。彼らの知らない話題や入りこめない領域が広がっていく。帰郷後、彼らのめずらしい土産話が一時は皆を引きつけたとしても、奇特な体験はつねに日常に負けるのだ。(P.160)

 

何か分かんないけど悲しくなるからヤメロ!(笑)

でもこれって日本的な考えな気がするんだけど、どうでしょう?海外ってこういうブランクに寛容なイメージがある。まあ、海外に住んだことないから知らんけど。

 

そろそろ故郷に帰りたいんだけど、帰る勇気が出ない主人公の前にポツンとレストランが現れる。それが注文のいらないレストラン。お店サイドが勝手に料理を提供するレストラン。一体何が出てくるんだと想像も出来なかったけど、読み進めてみると「あぁ、そうくるか」と。主人公が「もう帰るよ」となってしまったのも思わず納得してしまう料理が確かにあった。学び、共感、疑問、納得…この作品が1番好きかな。

 

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【夜の国のクーパー】(著:伊坂幸太郎)

 

夜の国のクーパー】(著:伊坂幸太郎)を読了。

 

100年以上前に戦争に負けたらしい国。これまでは穏やかに過ごしていたのに、ある日、敵国の兵士がやってきて支配が始まった。

 

前半がつまらなくて、つまらなくて。猫が人間の言葉を理解できるという設定なのだけど、猫らしく自国の人間の会話を聞いたり、敵国の人の様子をふらりと見に行ったり。猫視点で物語を読み進める我々読者。いっそのこと自国民の誰かの視点で物語が進んだ方が相手の出方も分からないし、よっぽど恐怖を感じたんじゃないかと思う。

いや、この物語で伝えたかったことが「戦争って怖いよね。」ってことじゃないから、猫視点にしてその部分を和らげているのかもしれないけれども。

 

私はこの小説を読んで、人を閉じ込める方法を学んだ。外に得体の知れない、関わると命を失いかねないナニカがいると言ってしまえば良い。私が見回り役に立候補をして、懸命に逃げてきたような小芝居を打って戻ってくる。グロテスクで見たことのない生き物がいた、鋭利な手をしていた気がする、グチャグチャな死体も転がっていた、なんて具合にね。

 

未知への恐怖と言えば、記憶に新しくあるのがコロナウイルス。外に出るのが怖いよ、って人も沢山いたはず。当時は死者数や感染者数が毎日発表されていたけれども、それを疑った人っていなかったんじゃないかな。

夜の国のクーパー】に出てくる国王は、国民から信頼され、好かれ、支持されている。だから国民は国王の言う「戦士は国のために戦っている(本当はただの相手国への労働力の貢ぎ)」「この国と相手国には大差がない(実際は50分の1の大きさ)」「壁の外には別の町がある(実際は孤立した国)」を疑うことなく信じている。だけど実は嘘ばかりついている、それも自身の保身のために。

 

政府をあんまり信頼していない日本人だってコロナ禍の時は、政府から発表される情報を信じてしまっていた。過信しないこと、何が真実かを疑ってみることはすごく大事だけれども、自分に置き換えてみるとすごく難しいことが分かる。

 

…とまあ、私はこの小説のメッセージを『恐怖による支配』と『現実を疑え』ってことだと思ったものだから、結末が『コミュニケーションを取ろうという気持ちが大事だよ』って内容で締められているのが解せない。

 

あと、クーパーとの闘いの話、あまりに長くしつこかったですね。答え合わせは複眼隊長の独白だけで十分だった気がするなあ。

 

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【僕が死ぬまでにしたいこと】(著:平岡陽明)

 

【僕が死ぬまでにしたいこと】(著:平岡陽明)

『みじめな気持ちになる秘訣は、自分が幸福かどうか考える時間を持つことだ』というバーナード・ショーの名言から始まるこの小説。小説の冒頭としてはインパクトのある言葉に魅かれて読み進めることになった。

 

最近、哲学者の説法(?)を分かりやすく解説してくれる動画を観ているんだけど、その中の1つに「考えるから不幸になる。念仏でも唱えておけ」って主張する哲学者がいて、それと似たようなものかなあと思った。

 

しかしながら主人公の吉井はロスジェネ世代。独身だし、薄給のフリーライターだし、諦めること、負けることに慣れていた。そんな彼が、昔お世話になった上司に「僕が人生でやりたいことの1つは別居中の妻とまた暮らすこと」と教えてもらったり、氷河期世代を共有できる同級生と再会したり、タイパ重視で将来は仙人みたいに生きたいという秀才高校生クンと接点ができたりで、自分の人生を色んな方向が見てみたりする。

 

私は人生は全部“運”だと思うようにしている。就職氷河期や大震災やコロナのように、本人の努力や能力が太刀打ちできないことってある。ずっと語られるようなこんな大きな出来事だけでなく、きっと本人さえも気が付かない些細な出来事が組み合わさって芳しくない結果をもたらしてしまうこともある、はず。だから努力はするけれども、上手くいっても運だし、上手くいかなくても運だと思うのだ。

 

なんて胸に感想を抱きながら読んでいたら仙人志望クンがこんなことを。

「少なくとも自己責任なんて言葉は嘘です。人が生まれついたことに、何ひとつ理由はありません。先ほど吉井さんも仰ったじゃないですか。世の中には誰のせいでもないことがたくさんあるって。吉井さんたちが喪失世代(ロスジェネ)に生まれついたことも、誰のせいでもないんじゃないでしょうか」(P239)

 

いや、本当ですよ!彼の台詞を読む前から“運”理論を持っていたんですよ…!

と、まあそんなことはどうでも良いんだけど、じゃあ結果が出るようなことが“運“だとして、それを受け入れた上でどうすれば自分が幸せであれるのかを探すのが大事だと思うんですよね。

 

小説のタイトルが『僕が死ぬまでにしたいこと』だからキャラクターが死ぬまでにしたいことを考え出すんだけど、大金持ちになりたいとか、ブランド物に囲まれたいとか、一流企業に勤めたいと言い出す人物なんていなくて、もっと心の充足を求めていたりする。

 

多分これどこかの小説の感想でも語ったと思うんだけど「大金持ちになるか、貧乏で幸せになるか、どっちが良い?」って質問の答えは断トツで後者。だってお金って幸せになるための道具じゃないですか?もちろん生活していくだけのお金は必要だけど、そもそもどうしてお金が欲しいかと言うとお金があれば多分幸せだろうって思っているから。あるいは貧乏は不幸だとか。

つまるところ、私たちはお金持ちになるために努力をしているんじゃなくて、幸せになるために努力をしているんだと思うんですね。

 

私には『死ぬまでにしたいこと』がまだ見付かっていないけれど、忙しい日常を過ごす中で、手段と目的が曖昧になってしまって、そのせいで苦しんでしまうのは本当に勿体ないなあ、とこの小説を読んでそんな考えを思い出したわけです。

 

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【丘の上の賢人】(著:原田マハ)

 

【丘の上の賢人】(著:原田マハ)を読了。

 

売れないタレントだった“丘えりか“は唯一あった旅番組のレギュラーも終わり、ついに廃業の危機。そこで旅好きということを活かし、事情があり旅が出来ない、そこへ行けない人に代わり旅をする旅行代行の仕事を始めることに。

 

まずザっとした主人公のこれまで話から、丘えりかの代理旅がいつくもあるのかと思えば、本書で出てくる旅は1つだけ。著者の原田マハさんって旅行好きで、旅行エッセイで本も出されているくらいだから、旅先での小ネタは多くあるだろうし、1ヵ所だけって勿体ないなと思った。

 

代理旅の依頼先は北海道。幼い時に親を失って姉が育ててくれたのに、喧嘩をし飛び出すように上京してしまって帰れないから、会いに行って欲しいということ。その原因となった初恋の男性らしき人がどうやら自分と彼の最後の待ち合わせ場所に度々現れるから、彼に伝えて欲しいことがある、という中年女性からの依頼。

 

先に言ったように本書にはたった1つの依頼、旅しかないので、この依頼内容が好みかどうかで作品の評価は分かれると思う。

私は正直なところイマイチだなあと思った派で、それは読み進めでも覆らなかった。会えないからと依頼をしてきたのに姉に手紙は送ってんのかよ、とか、初恋の男性らしき人は何の捻りもなく本人なのかよ、とか。これ“代理旅”の必要があったのかなあという印象を持った。

 

作中で丘えりかの人柄についてこんな描写がある。

「あんた、いい顔してるわねえ」

おいしそうな顔、楽しそうな様子。おかえり(丘えりか)の魅力は、旅をすることを演じていないってとこなんだよなあ。そんなふうに言われたことがあった。いつも、素のままの人。(P92 一部省略)

 

ちょっと分かる。動画でもSNSでもネット上で誰かが旅をした様子が簡単に見られるようになったけれど、プロが撮ったようなものよりも、ちょっと惜しい素人くさいものの方が何故かグッとくることがある。綺麗すぎないそれが逆に何だか生々しくて、まるで自分が旅行をしているように錯覚させてくれたりする。

 

素人くさい旅行記の方が何か良いよね、というのは作者の考えでもあるのだと思うし、そこに共感できているというのに…。丘えりかの代理旅の描写が「素人くさいけど何か良いよね」って表現になっていないのが、いささか残念ではある。

 

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【その日東京駅五時二十五分発】(著:西川美和)

 

【その日東京駅五時二十五分発】(著:西川美和)を読了。

 

これは戦争の話。ぼくにも徴兵命令が下された。が、体の小さなぼくは徴兵検査に受からず、最前線ではない仕事に就くことになる。回されたのは加工場での仕事。その仕事に慣れた頃の辞令で、次は通信兵として尽くすことになる。そうしたうちに戦争が終わり、ぼくは東京駅を五時二十五分に発つ電車で故郷に帰ってきた。何もなくなった故郷・広島に。

 

あとがきに書かれていたのだけど、この作品は作者の伯父の手記を元にしていて、全てがノンフィクションというわけではないだろうけれど、ベースにあるものは事実であるようだ。

 

戦争を題材した作品でノンフィクション、つまり実際にあったことや人物を軸として作られた作品は割と多いし、私も読んだことがある。『月光の夏』(著:毛利恒之)という作品もそうだったはずだ。

 

ノンフィクションが元になっている作品を読むと私たちが学んできた“戦争”が広がる。

『月光の夏』では振武寮といって、怖気づいたり、エンジントラブル等で特攻できなかった者たちを隠匿する場所が描かれていて、戦争の異常さをそれまでより深く感じたし、今回読んだ『その日東京駅五時二十五分発』ではいち兵士でありながら前線に縁が無く、上司も人が良い場所に配属された“ぼく”の存在が描かれていて、これも私の思い描く戦争とは少し違う気がした。

 

戦争、兵士と耳にしてイメージするのは厳しい上下関係や常に気を張っている姿、懲罰、であって、そういうシーンが描かれている作品は沢山あるし、そういう事実が多くあったことは間違いないのだろうけど、人対人なわけだから、ドラマで観るような対人関係ばかりではなく、この“ぼく”のようにコミュニケーションが取れるというか朗らかな関係もそりゃあったんだろうなあと、冷静になってみると思えてくる。

 

戦地に行った家族を待つ立場の人たちだって、表では「日本バンザイ」と言い裏でシクシク泣くみたいなシーンが多いけれど、与謝野晶子みたいに戦地に行く弟に対して「人を殺せと教えたことはない」みたいなことを言った人もいるわけだし。戦争を仕方のないものとして受け入れていた人だけが存在していたのではない。だけど戦争反対の声を挙げた人の姿はいまいち想像できなくて、自分が持っている戦争の知識がすごくすごく狭いことに改めて気が付かされる。

 

作品自体は正直、そんなに面白くない。だけど実際に戦争を経験された人から聞いたノンフィクションだと知ると「面白くない」と言ってしまうのが申し訳ない気がして。何か別の形で見たかったなあと思う。

 

戦争を経験した方がどんどん亡くなっていて、経験を語れる人が少なくなっているのが問題になっている。当時の人たちにはツラい事も、もしかしたら良い事も、それぞれの戦争体験があっただろうに、戦争とは、と耳にして皆が1つの同じイメージしか浮かばなくなるのは気味が悪いことなのかもしれない。

 

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honnosukima.hatenablog.com

 

【キネマの神様】(著:原田マハ)

 

【キネマの神様】(著:原田マハ)を読了。

 

ギャンブルで借金を作った80才手前の父親のもう1つの趣味は映画を観ること。本人曰く70年の映画歴。そんな父親が潰れかけの出版社「映友」のサイトに文章を投稿したことがきっかけで、彼はゴウというペンネームを持ち映画ブログをスタートさせることになる。彼の映画の解釈に批判的な反応と自信の解釈を書き寄せるローズ・バッド。いつしか二人は旧知のごとくネット上で名映画作品の意見交換するようになり、その深いやり取りにブログの閲覧数もグングンと上がっていく。

 

原田マハさんの経歴は知らないけれど、『本日は、お日柄もよく』というスピーチライターを取り扱った作品(読んだことは無い)を書いているところを見るに、人が魅かれる文章とは何かということの本質を知っておられるのだなあと思う。

 

私は本の感想を綴るこのサイトを持っていて、読書感想に限らず色んなサイトを読み回っていて、いわゆるプロじゃない人が書いた文章に多く触れていると自負しているけれども、魅かれる文章というのは書き手の本心やその気持ちに至る人生が見える文章であるとつくづく思う。「勉強は大事である」「友達は数じゃない」なんて世間のきれい事を語った文章なんてつまらないし、良い事を言ってやろうという格好付けた文章も意外と読み手には伝わるものだ。

 

私がそんな文章を書けている自信はないが、「こんな感想を書いたら性格が悪いって思われちゃうかな」「良い気持ちにならない立場の人もいるだろうな」と顔も見えないたまたまこのサイトに辿り着いた人にさえ「良い人と思って欲しい」と誰が読んでも耳馴染みの良い事で済ませたくなる時がある。そんな時に「いやいやこれが私の感想だぞ。他人の顔色を気にして綴ることに何の意味があるんだ」と思い直して極力正直に綴っているつもりではあるのだけど…。

 

そんなわけで、主人公の父親が綴った映画ブログが人気が出るというのは理解できる。むしろ、インターネットの怖さを知らず好きなように映画の感想の述べることが出来、その上で70年もの長い時間、ものすごい数の映画を見ている、という点から見てもとても素晴らしい人選なのだ。

 

ゴウとローズ・バッドの友情の行方もさることながら、二人が書いた『硫黄島からの手紙』の感想は是非とも読んで欲しい。戦争を経験している人(二人ともフィクションから生まれた人物だからこの表現は変だけれども)にしか、その個人にしか書けない、そういう文章である。

 

“その個人にしか書けない文章“、上手い下手ではなくそういう文章こそが、人を惹きつける文章なのだと私は思っている。

 

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【わが母の記】(著:井上靖)

 

わが母の記】(著:井上靖)を読了。

 

父が亡くなってから5年。母に今で言う認知症の症状がちらりと見え始めてから、亡くなるまでの記録『わが母の記』。デイサービスや老人ホームなどが作中では一切出てこない時代の話で、兄弟や娘(“わが母”から見ると孫)たちと協力し、母の面倒を見、そして看取る。

 

現代を生きる私からすると、「ちょっと疲れちゃったから兄さん、母を数日預かってくれる?」みたないことがあったり、孫でさえも「季節が良いからウチにお祖母ちゃんを寄こしてくれて良いよ」みたいな、認知症の母の存在を疎ましがって押し付ける様子がないのが印象的だった。

 

介護サービスなどなく「自分たちで面倒を見るしかない」という覚悟がそうさせるのか、一種の諦めなのか、どちらにせよ介護に対するその心の在り方はちょっと羨ましいと思った。私は介護サービスが充実している便利な時代に生きているけれど、そこに期待しすぎていて、サービスからあぶれて自分で対応しなくちゃいけないちょびっとの事にストレスに感じてしまうだろうから。

 

認知症と言えば記憶も自分の認識している年齢もあっちに行ったりこっちに行ったり、時に頑固になったり。面倒を見てくれる娘を『世話をしてくれている他所のおばさん』だと思っているような描写があったりして。今でこそ『認知症の母が少女のような顔を見せる』『今は40代かもしれない』なんて描写はありふれているけれども、1960年代に(出版された書に)そんな風に『ただの痴呆』から一歩優しい方向に踏み込んだ見方は少なかったのかもしれない。

 

認知症の祖母の扱いが上手なのが、孫の琴子である。

私にも95歳になる祖母がいて、そんな年齢になると当然痴呆も入ってきている。デイサービスに行くとお誕生日月が同じ人と適当な日にお祝いして貰えて、家族ではお誕生日当日にお祝いしているんだけど、「この前自分の誕生日は来たのに、なぜまた祝うのか」と聞いてくる。『お祝いされる=誕生日当日』という方程式が祖母の中で成り立っていて、デイサービスでお祝いされた日も自分の誕生日だし、家族でのお祝いも自分の誕生日で、「デイサービスの日はみんなでのお祝いだから誕生日当日じゃないんだよ」と説明しても理解してもらえないし、混乱してしまうようだった。

 

孫の私からすると「もう1年経ったんじゃない?」って軽く流せば良いんじゃないの、年に2回お祝いされてそれを疑問に思ったこともそのうち忘れるんだろうしって思うんだけど、子供(私から見ると親や叔母叔父)からしたら自分の親だから真摯に向き合ってあげたいものなのかな。

自分事として当てはめてみると、琴子が祖母との関わり方が上手な理由が少し分かる気がした。

 

30年くらい経つと孫ではなく子供の立場でこの本を読むのだろうか。それとも迫ってくる老いを感じて、母の立場で…?ボケる前にぽっくりと逝きたいなとは思っているのだけど、長生きの家系だからどうだろうなあ。

 

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