【さざなみのよる】(著:木皿泉)

 

【さざなみのよる】(著:木皿泉)を読了。

主人公は病死する、ではなく病死“した“女性。生前の彼女と関りのあった人たちが、彼女の死をきっかけに彼女を思い出し、彼女の言葉を思い出し、自分の人生にちょっと彼女の面影を感じる、そんな物語。

 

あのとき、自分は何に腹を立てていたのだろう。自分の思い通りにならなかった、ということに荒れ狂った。もともと人間なんて、思い通りにならないのに。それがわかったのは病気になってからだ。あの頃の自分に教えてやりたい。あんたは、自分で考えていやのより百倍幸せだったんだよって。(P11)

 

“もともと人間なんて、思い通りにならないのに”という部分にその通りだなとドキッとした。別にこの手のことを初めて聞いたわけではないのに、私という生き物はどこか自分を過信してしまうのか、そのことをすっかり忘れてしまう。人生に失敗は当たり前、だからチャーミングに生きたい。これが成功する人生よりも自分が求めていることだと思い出した。

 

「ゲームをしているときって時間がはやく経つけど、歯医者さんとかゆくと、ものすごく長く感じるじゃん。そーゆーことだよ」と言う。

(中略)

「人間の一生もさ、人によって違うのかもね」と言った。「ナスミは、四十三歳で亡くなったじゃない。私たちは短いと思い込んでいるけれど、ナスミ本人にしたら、フツーの人の一生分と同じくらいの長さを感じていたかもしれないわね」(P203)

 

この考え方が新鮮で好きだった。

それこそ上で言ったように人生は思い通りにならないものなんだから、ナスミのように病気で亡くなることもあれば、本当に急に事故等に巻き込まれて死んでしまうこともある。そんな時に「早い死だったけど、あの人はこんなこともあんなこともしていたね」と言ってもらえる人生だったら、どんなに良いだろう。

 

この小説を読んでいると『死』について自然と考えさせられた。

私にはもう90歳を過ぎた祖母がいるのだけど、かなりボケが進んでいる。ずっと仲が良かった友人が死んでいるのか生きているのかさえも、娘が会いに来てくれてもう帰ったのかただ出掛けているから不在なのかさえも、曖昧ではっきりしない。認知症の症状の1つである妄想もあって、存在しない出来事が祖母の中では存在するリアルな出来事としてあったりする。

「死ぬ時に持っていけるのは思い出だけ」なんて言葉があるけれども、祖母を見ていると思い出さえも持っていけないんじゃないかと思う。

 

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