【密やかな結晶】無いなら無いなりに

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【密やかな結晶】(著:小川洋子)を読了。

 

少しずつモノが消失していく世界の物語。モノが消滅するとそれにまつわるニオイや音、記憶なんかも失われていく。

例えば虫取り網が無くなったら、セミの響くような鳴き声や、うだるような夏の暑さと夏のニオイ、捕まえた時の達成感…そんな思い出たちも浮かんでこなくなる。

【密やかな結晶】の世界には、記憶が失われない人が僅かに存在しているのだけど、そんな彼らは異端として秘密警察に連行されてしまう。小説家の主人公は、担当編集者のR氏が記憶を失わない人物だと知り、匿って生きていくこととなる。

 

記憶が失われる喪失感、政府に逆らっている(R氏を匿っている)恐怖、日に日に生活必需品が手に入りにくくなる欠乏感。

 

コロナウイルスでどこにもマスクが無かったり、「特大台風が来るぞ」ってなってインスタント食品やパンがスーパーから消えたり、ショッピングモールで空き店舗が目立つようになったり、瞬間的ではあるけれども、小説の世界観と似ている経験や感覚は意外と現実世界にもあるんじゃないかと思った。モノが欠けていく世界に対して私は、寂しいとも怖いとも違う、私の生きる世界に黒やグレーが増えていき彩りが減っていくような感覚を覚える。

 

色が失われていく世界で、「手に入ったものでご馳走を用意したよ」って開催されたおじいさんの誕生日会はパッと空気が明るくなって色が蘇った気がした。

この小説を読んで『こんな世界に抗うには』と考えてみる人も多いのかなと思うけれど、私は『こういうどうにもならない世の中になったときはこうやって楽しめば良いんだな』とおじいさんの誕生日会のページを読みながら思った。

 

「心がぎゅうぎゅう詰めになって、窮屈になったりしないのかしら」

「いいや、そんな心配はないよ。心には輪郭もないし、行き止まりもない。だから、どんな形のものだって受け入れられることができるし、どこまでも深く降りてゆくことができるんだ。記憶だって同じさ」(P127)

 

この文章を読んだ時に、思い出や記憶は確かに無限に心にしまっておけるなあと思った。だけど、最後まで読んだ時には、記憶や思い出って薬箱みたいなところにザーッとしまわれていて、開ける(思い出す)ことがなければそれは結局無いのと同じなのではないかと思った。

 

その理由は、R氏には主人公の元へ潜伏する前に別れを告げた妻と子どもがいるのだけど、最後の方には家族に対する描写がこれっぽっちも出てこなかったから。彼は記憶をはく奪されない特別な人物で、記憶は確かに”ある”のに、思い出せ(さ)ないから。

 

記憶のはく奪は悲しく寂しい、許せないことだけれど、R氏のように記憶をはく奪されなくても私たちは日々色んな事を忘れていく。だからこそ、はく奪されまいと足掻く姿よりも、失われた世界で楽しみを探す姿の方に共感したのかもしれない。

 

消滅・消失の物語ということで、筒井康隆の【残像に口紅を】を彷彿とさせた。 

honnosukima.hatenablog.com

 

しかしながら、こういったテーマの作品の結末はいつも同じ。自身の消滅。それぞれの作品は面白くとも、何作か読むとマンネリは否めない。こういう締めが綺麗なのは分かるのだけども。

 

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