【水やりはいつも深夜だけど】パートナーは自分で選べる唯一の家族

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【水やりはいつも深夜だけど】(著:窪美澄)を読了。

 

母としての立ち回りに悩んだり、父親・夫として家族の中で上手く居場所が作れなかったり、子どもの成長に悩んだり、父の再婚で新しくできた家族に悩む女子高生、母と父母の不仲に挟まれる男子高校生…などなど家庭を描いた6作の短編集。

 

既婚者の中には家庭を持ったとたんまるで1つステージが上がったように振る舞う人がいるけれど、結婚したからって、子どもを産んだからって、悩みや不満に対する耐性が強くなるわけでも、受け入れる容量が大きくなるわけでも、対応力がグンと大きくなるわけでもない。独身・既婚関わらず、悩んで悩んで人として1つ成長できるんだなあと改めて思う。

 

気になったのは子どもサイドの視点から物語が進む『かそけきサンカヨウ』『ノーチェ・ブエナのポインセチア』の2つ。

父が再婚して新しい母親と妹ができた女子高生と、母と祖母の意見が合わなかったのに自分の病気が発覚したことで更に母の立場が弱くなってしまったのを感じながら過ごす男子高校生。

 

夫婦がうまくいっていないのは「相性が悪かったんだな」「見る目がなかったんだな」と思うけれど、子どもが子どもらしくいられない、大人のように色んな事を飲み込まなきゃいけない家は、そこで生まれた子どもがただただ可哀想だと私は感じてしまう。

 

父の再婚…の女子高生は父子家庭だったから、再婚前は父親が遅くなる日や泊まりの出張なんかがある日は一人でご飯を作って食べるのだけど、新しい母と妹との初対面の時に妹が父親に随分と懐いているのを見て、『自分が1人でご飯を食べていた夜に、3人で居たんだろうな』って思っている描写が個人的にはとても寂しかった。

 

その後にちょっとした事件が起きて「ずいぶんと早く大人にさせてしまったなあ…」(P212 父の台詞)なんてあったりするのだけど、この人、今までの娘の孤独感に全く気が付いていないんじゃないか、とモヤモヤ。

 

『ノーチェ・ブエナのポインセチア』にこんな男子高校生のモノローグが出てくる。

僕の家のカタチのことを考えた。それを自分で選んだわけではない。そのカタチを自分で選ぶことができない。

大人になれば、僕はそのカタチを選べるようになるんだろうか。(P247 一部改変)

 

「パートナーは自分で選べる唯一の家族」という歌詞をどこかで聴いたことがある。どんな親の元に生まれるか、どんな子が生まれてくるか。それは選ぶことができない。夫婦までなら家(族)のカタチをある程度選ぶことができる、というか望んだように作っていけるのではないかと思う。

 

あとがきが著者の窪美澄さんとアイドルの加藤シゲアキさんの対談になっているのだけど、その中で著者の窪さんがハッキリと『家族小説』と仰っていたので、私もハッキリと不満点を述べる。

小説に収録されたどの物語にも子どもがいて、夫婦2人で成り立つ家族がなかったことが気になった。家族の最小単位数は”2”だと私は思っているから。

 

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