【ふじこさん】(著:大島真寿美)を読了。
学校って小さな社会だと言われるけれど、本当にそうだと思う。
小学校がつまらなければ、中学に入れば楽しくなるんじゃないかって期待する。中学がつまらなければ、高校に入れば…と期待する。高校がつまらなければ…。
だけど、多分、どこかでその退屈の原因にきちんと向き合わなければ、日々のつまらなさやモヤモヤした気持ちはいつまで経っても解消されないのだと思った。
やっと学校が終わっても、塾やお稽古に行き、宿題をするだけで、一日はおしまいになる。家に帰っても、居心地は悪かった。
このまま大きくなったとして、どこかでがらりと世界が変わるとは到底思えなかった。
永久にこんなつまらない日々が続くなんてまっぴらだけど、じゃあどうすれば抜け出せるのか、もちろん知らなくて、長い長いトンネルの暗闇をもんもんと歩いているようなきもちでいた。(P11)
ほら、大人も子どもも変わらない。
そんなリサの心を救ったのが”ふじこさん”の存在だ。
家を持たず、友人の家と職場とリサの父の家を泊まり歩いているふじこさんにリサは「そんな人もいるのか」と思う。
生まれてから関わってきた人たちがすべてだと思いこんでいる感性。もちろん、いろんな人が、自分の知らないところで生きていることぐらい、頭ではじゅうぶん理解してはいた。けれども、それは、インドの首都がニューデリーであると知ってはいても、ニューデリーがどのくらい暑くて、人々がどんな言葉で会話し、なにを食べ、なにを笑い、なにを感じ、なにを信じているのか、じつはまるでわかっていないのと似ていた。(P46)
この、自分が『是(正しい)』としていない生き方で、意気揚々と生きている人に出会った時の安堵感というか光が射す感じは私にもちょっと分かる。
何かさ、私は凡人だからできるだけ良い学歴を持って、良い会社に就職するっていうのが正解のルートだと思っていて、そこを目指して進学しているわけだから、高校、大学って年齢が上がっていくにつれて似た価値観の人の割合が増えていったんだけど。
私は”生き残れなかったら【死】”、”生き残っても次のゲームは鬼レベル”っていうカイジみたいな世界に生きている。でも、周りも競争社会で歯を食いしばっている人ばかりだし、そういう生き方しかないんだって無意識に思い込んでいた。
だけど例えば、定時退社のサラリーマンをしながらイラスト描きます!とか、劇団に入りながら売れるまでアルバイトです!みたいな生き方で”楽しんでいる人”と出会えていたら、こんなイス取りゲームみたいな生き方じゃなくて、もっともっと自分の幸せを考えながら人生を選んでこれたんじゃないか、と思ったりする。
昨今では、人間関係は狭い方が良いという風潮があるけれど、いろんな境遇、いろんな生き方をしている人に出会うことは、生きる希望になると思った。
「リサは、宝物は、はっきりと宝物だってわかると思っているんだね?」
「だって、宝物っていうぐらいだから。すごくいいものなんでしょ」
「ゲームだとさ、宝物は宝箱に入っていて、それは誰にとっても宝物ってはっきりわかるから、みんなそれを手に入れたがるよね。だけどさ、それはあっちの世界の話で、こっちの世界では、あんな宝箱なんてないのよ。だって、見たことないでしょ?」
りさは頷く
「こっちの世界では、宝箱なんてどこにも置かれてないの。ここが大事なんだけど、それは誰にでも共通の宝物じゃないのよ。だから、誰にでもわかる宝箱に入れるわけにはいかないわけ」
(P99-100 一部改変)
なんで、私たちは共通のもの(富や名声)を追い求めてもがいているんだろう。
私たちのこの努力の先に果たして宝箱はあるのだろうか。宝箱があったとして、私はその中身をお宝だと思えるのだろうか。
こっちの世界のお宝は自分の生きる力になる、そんな存在なんだと思う。人に自慢できるようなものじゃなくても、何ならば隠したいようなことであっても。
生き辛さを感じていた小学生時代のリサにとって、”ちゃんと”していない大人であるふじこさんが、そんなふじこさんと過ごした時間が、宝物であったように。
価格:660円 |