【ここは退屈迎えに来て】本当の成人式で得るものはちょっとした切なさなのかもしれない

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人は誰でもオンリーワンである、と私は思う。

だって世界中のどこを探しても私と同じ人間はどこにも存在しないのだから。

 

大都会に行けば私をキラキラさせてくれる何かがあるはず。つまらない地元を飛び出し東京へ出たものの、何か成し遂げることも特になく10年で地元にUターンした私。そういえば、学生時代にキラキラしていた椎名はどうなっているのかなあ、と会ってみると田舎に住むどこにでもいる30歳の大人になっていた。

 

人はいつ『自分はオンリーワンではなくエブリワンを形成する1つなのだ』と悟るのだろうか。

大人になるって良く言うと「達観する」悪く言うと「諦める」じゃないかと思う。だって大人でヒーローになりたいと叫んでいる人なんていない。

 

この本を読んでいる時に世間ではちょうど成人式が開催されていた。成人に関する面白い記事を見つけたので紹介したい。

topics.smt.docomo.ne.jp

 

記事の中でコピーライター・糸井重里さんの言葉が紹介されている。

「日本の成人式って30歳でしょ。27歳だよって言う人もいるけど、俺は30歳だと思うな。だって30歳になるまで周囲の眼も甘いからね。日本の成人式は30歳。30歳になって『やることがわかった』というのでいいんじゃないかな。俺の成人は45歳だったけど」

 

12年引きこもったトシさんにとっての『本当の成人式』は8年ぶりに勇気を出して1人で外出して訪れたドラクエのコンサートだそうだ。それをきっかけに少しずつ外に出られるようになったと書かれている。

 

20歳の1月の第2月曜日、私はまだ大学生だった。

年齢的には立派な大人に区分されるけれど、学生だったということもあり自分が大人であるなんて自覚は米粒ほどもなかった。それどころか大学を卒業しても、働いている今でも、私の考えは幼く大人とは言い切れないなあと思う。

恥ずかしながら私の『本当の成人式』は未だ開催されていないのかもしれない。

 

小説に出てくる東京で現実を見て地元にUターンしてきた女性。

彼女が「自分は特別ではないのだ、何者でもないのだ」と自覚し帰郷を決めた日が、彼女にとって本当の意味で『成人をした日』であるような気がした。

 

そして平々凡々に生きている私にとっての『本当の成人式』も、トシさんのような自分を奮い立たせてくれることとの出会いではなく、おそらく何かを諦める日なのだろうなと思う。

 

現代人は大人になりきれず?

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ヒーローになりたい、ヒロインになりたい、という願望は程度の差はあっても誰しもが持っているものだそうだ。

けれども年齢を重ね、それは選ばれた人間しか手に入れられない境地なのだと思い知らされる。

 

ところが近年はSNSが台頭して”受けが良い”あるいは”過激な発言”で誰もがスポットライトを浴びられる時代になった。

もちろん埋もれていた才能が発掘される機会が増えることは良いことなのだけれど、平凡な人間が平凡であることを受け入れにくくなったなあとも思う。自分にも大勢の人から憧れられる人間になれる可能性があるように感じてしまう。

 

漫才のコンテストであるM-1グランプリはかつて、出場資格に結成10年未満という決まりがあった。

それは才能のない若手が「いつか売れるかもしれない」とずるずる年齢を重ねてしまわないように、漫才師を諦めるきっかけを作ってやりたかったからだとM-1設立者の島田紳助は語ったそうだ。

 

あぁ自分は特別な人間ではなかったんだなあと感じた時の切なさたるや…。

でも、切なさを抱くというのはある意味大人になった勲章みたいなものなのかもしれない。だって自分が特別な存在ではないと客観視できるまでに成長したということだから。

 

『自分は特別ではない』という切なさと共に生きる決意が出来た時、「私はココにいるよ。退屈だから迎えに来て」なんて他力本願は消え失せる。

そうなると東京でも地方都市でも場所は関係なく、何処でもそこそこ上手く折り合いをつけて生きていけるのだろうなあと思う。ちょっとした切なさと共に。

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