【遠くの声に耳を澄ませて】(著:宮下奈都)

 

【遠くの声に耳を澄ませて】(著:宮下奈都)を読了。

本作は12作品の短編からなる小説である。短編連作、と言えるほど大きな重なりはないけれど、見覚えのある名前が別の作品にも出てくるようなそんな仕掛けもなされていた。

 

【遠くの声に耳を澄ませて】の短編の中で【部屋から始まった】というタイトルの作品が心がザァッと晴れるような読後感があって個人的にはお気に入りである。

 

主人公の依子はこの頃いろんな事が億劫になっていた。朝早く起きるのも、自分でお弁当を作るのも、にぎやかな同僚たちと昼食を共にするのも。ある日「どうやら台湾にどんな不調もぴたりと言い当てるらしい医者がいる」らしいという同僚たちの会話が聞こえてくる。その話題に可愛く反応する佐和子ちゃんと自分の彼との噂を思い出して1ムズムズ、その夜に会った彼との想いの深さの釣り合わなさに2ムズムズ、胸がムズムズでいっぱいになった依子は週末、台湾に飛んでいた。

 

『旅が人を成長させる』というあまりにも有名な考えがある。一人旅は不安やある種の孤独の中で自分を見つめ直す良い時間になるだろうし、海外旅行に行けば異文化に触れて今までに考えもしなかった視点が身に付くこともあるだろう。

 

そもそも『旅』って何なのだろう。それは自分の慣れ親しんだ人や土地から物理的にかなり離れた場所を訪れることなんじゃないかとこの物語を読んで思う。歩いたことがない知らない街でも、たった3駅しか離れていなかったのならば、私たちはそれを『旅』とは呼ばないのだ。

 

台湾の医者にかかった依子は形ばかりの薬と「流しなさい」というアドバイスを貰う。診断による劇的な改善は得られなかったが、台湾と日本という物理的な距離が、佐和子ちゃんとも彼との距離にもなって、依子は彼とも離れても大丈夫かもしれない、そんな気持ちになった。

 

そうして夜、ホテルから見下ろした街並みが台湾だと気が付いた時、依子は不意にこんな気持ちを抱いて、新たな一歩を踏み出す気力に満たされていた。

どうして私はここにいるんだろう。

私のいる場所はここではないのではないか。

戸惑いではなく、もっと力強い、疑問よりも確信に似た感覚がこみ上げる。私は北村さんを流しに来た。もうここにいる必要はないと感じるのは、それが終わったからではないか。ここでなく、東京のマンションのあの部屋でもなく、どこかもっと広くて明るい場所へ踏み出していきたくなっている。(P139)

 

そして結末に続くこの文章。

これが、あの薬の効用だろうか。それとも、もしかしたら、この旅の。今朝、成田を飛び立ったところから始まった短い旅が、もう私を変えている。

(中略)

違う、もっと前だ。台湾に不思議な医者がいると聞いてむずむずしたときから、あるいは「むずむずします」と北京語で練習してみたひとりの部屋から、旅は始まっていた。(P140)

 

この『部屋から、旅は始まっていた』という文章が爽やかでいて、それでもって希望に溢れていて、すごく好きだなあと思った。胸がジンとした。どこかに旅がしたいと思ったその瞬間に自分を変えるチャンスが目の前にゴロゴロと現れるのだと思ったら、実は人生ってポジティブな事ばかりなんじゃないか、とそんな気持ちになったのである。

 

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【嵐のピクニック】(著:本谷有希子)

 

小説を読み進める気が全く起きなかったり、動画サブスクの無料期間を謳歌したり、なんてことがあって1ヶ月ぶりに小説を読み切った。リハビリとして【嵐のピクニック】(著:本谷有希子)というのは相応しいのか、という部分は口を閉ざしてしまうところではあるけれど。

 

彼女の作品は少し特殊だ。前回読んだ『異類婚姻譚』も人と人ならざるモノの婚姻についての物語だし、神話、信仰、呪術…昨今の流れ的にあまり口には出しにくいが宗教っぽさがある。宗教の話を耳にしたときの奇妙さや不安感や畏怖を抱く文章を書く作家である、とたった2作しか読んだことがない私は思う。

 

そんな奇妙な物語が詰まった短編集【嵐のピクニック】の中で私が好きだった話が【Q&A】というタイトルが付けられた物語。

多くの女性から憧れを受け、質問に答えるという連載を受け持っていた女性が、病床を理由に連載を終えることになった。そんな彼女の最後のQ&Aの話である。

 

最初は自分のイメージや三十代を振り返えるようなどこにでもあるQ&Aなのだけども、『自分らしくいることに揺るぎない自信が持てるのはどうして?』という質問に、『私は皆さんが思う私“らしさ”を演じていただけなのです。本来の私は空っぽですが、人に仕立てられて私は私になったのです。』と答えていたところは非常に哲学っぽいなあと思った。

 

Q.いつも彼からの連絡を待ってしまいます。

A. 私たちはそんなものを待つ前から、もうずっと別のものに待たされているはずです。目の前の何もかもが一瞬で消え去って、誰かにハイと手を叩かれ、“今までの人生は全部嘘だった。今からが本番”と言われることを待ち続けているはず。だからあなたが本当に放っておかれている相手は、彼ではありません。(P.124)

 

この『Q&A』も結構好き。相談内容の解決はしないんだけど、人生の本質をチクッと刺してくる感じは、蛭子能収のお悩み相談っぽい。

 

昨今「カリスマ」という言葉が随分軽くなって「カリスマ(笑)」って感じなんだけれども、後者であった彼女が「カリスマ(笑)」と揶揄してくる人々が存在していることを知りながら、自分と向き合って病気になるような歳まで生きた結果見付かった『自分とは』『人生とは』という彼女なりの解釈がアンサーに透けてみえるのが何より良かった。

 

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【徘徊タクシー】(著:坂口恭平)

 

『徘徊タクシー』(著:坂口恭平)を読了。

 

恭平の曾祖母は認知症を患っている。祖父が死に、祖父の代わりに彼女を外に連れ出した時、彼女は明確な意志を持って進み始めた。そうして辿りついた場所で、ココとは全く違う地名である「ヤマグチ」と呟いたのだ。

そんな経験をした恭平は、認知症患者はボケているのではなく独自の地図を持っているだけなのだ、と思い認知症を患っている人を乗せてその人の行きたい所へ連れて行く『徘徊タクシー』という事業を思い付く。

 

認知症の人に対してこんな風に優しくいられたらどんなに良いだろうと思うけれど、こんなに簡単ではないなというのが正直なところ。

曾祖母や唯一のお客さんのように目的地がハッキリしている人なら良いけれども、どこかに行かなきゃいけないと思い込んでいるのだけど行先が分からない人や、幼少期・中年期・老人期、様々な自分の年代を行ったり来たりする人もいる。

 

私の祖母も高齢で、認知症というかボケがあるのだけど、記憶と現実をつなぐ線が簡単に外れちゃって、簡単に違うところに繋がってしまうんだな、と思うことがある。

死んでいる娘と生きている娘がどっちがどっちか分からなくなっていて、「次女は死んでいる」と言い出したり。テレビ電話をしたら「勝手に殺してごめんね」と言われたそうだけど。

1ヵ月くらい介護で一緒に住んでいた娘が帰っていった時に、「男が迎えに来て駆け落ちしていった」(ドラマが何かと記憶が混在している?)と言い出したり。

 

…とまあ、軽度のボケた老人を見ていてもこの徘徊タクシーは「無謀な企画だなあ」という感想を持つのだから、作中で事業が頓挫してしまうのも頷ける。

 

高齢化社会になっていくし、既になっているし、こういった多数派の救いになる事業が生まれたらいいなあとは思っているのだけど、難しいね。介護をする人も認知症の人もどちらもツラい社会、そんな人が大勢、という1つの未来がもうそこまで迫っているのだと考えると怖い。

 

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【夜明けの縁をさ迷う人々】(著:小川洋子)

 

【夜明けの縁をさ迷う人々】(著:小川洋子)を読了。

小川洋子の書いた作品の感想を綴る時、いつも困る。リアリティーのある作品なら現実に照らし合わせて、ファンタジーな作品ならばその非現実さを楽しんで、感想を吐き出せばよいのだけど、小川洋子の作品はその中間に位置しているものが多いからだ。

 

例えばイマジナリーフレンド。これはその本人にしか認識できず、リアルには存在していないものであるが、小川洋子作品ではそれが第三者に認識できていたりする。でもって普通の人間が持ち合わせていない奇妙さを持っていたりするものだから、現実と非現実が曖昧な世界に読者は上手く言葉に出来ない不安な気持ちにさせられるのだ。

 

解説で

とはいえ九編を読み終えての感慨は、何より小川洋子という作家は発想の人だという驚きである。(P207)

とあるのだけど、まさに。ありそうで無かった世界で溢れている。

 

『曲芸と野球』は上で話したような、野球少年と彼のイマジナリーフレンド(曲芸師の風貌をしている)の物語である。練習を見守ってくれる曲芸師。負けが確定して味方も敵もウンザリしている僕のヒットを喜んでくれる曲芸師。大人になりお遊びの野球になった今でも見守ってくれる曲芸師。

 

最初、少年のイマジナリーフレンドが他者にも見えるという設定と小川洋子節の湿っぽさを楽しんでいた。

聞いた話によると小川洋子は野球が好きだそうだ。それを知った時、この物語の視点というか始点は野球少年ではなく曲芸師の方にあるのだと思った。野球少年の頑張りを見守りたい気持ち、諦めない少年のヒットを喜ぶ気持ち、大人になっても野球に触れていて欲しいという気持ち。そう考えると物語の成り立ちがスムーズなのである。

 

小川洋子という作家は発想の人』。まさに本体が存在しなければ生まれるはずのないイマジナリーフレンドの側から物語が起こっているのだとしたら、本当に不思議な感性を持った人だとしみじみ思う。

 

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【さざなみのよる】(著:木皿泉)

 

【さざなみのよる】(著:木皿泉)を読了。

主人公は病死する、ではなく病死“した“女性。生前の彼女と関りのあった人たちが、彼女の死をきっかけに彼女を思い出し、彼女の言葉を思い出し、自分の人生にちょっと彼女の面影を感じる、そんな物語。

 

あのとき、自分は何に腹を立てていたのだろう。自分の思い通りにならなかった、ということに荒れ狂った。もともと人間なんて、思い通りにならないのに。それがわかったのは病気になってからだ。あの頃の自分に教えてやりたい。あんたは、自分で考えていやのより百倍幸せだったんだよって。(P11)

 

“もともと人間なんて、思い通りにならないのに”という部分にその通りだなとドキッとした。別にこの手のことを初めて聞いたわけではないのに、私という生き物はどこか自分を過信してしまうのか、そのことをすっかり忘れてしまう。人生に失敗は当たり前、だからチャーミングに生きたい。これが成功する人生よりも自分が求めていることだと思い出した。

 

「ゲームをしているときって時間がはやく経つけど、歯医者さんとかゆくと、ものすごく長く感じるじゃん。そーゆーことだよ」と言う。

(中略)

「人間の一生もさ、人によって違うのかもね」と言った。「ナスミは、四十三歳で亡くなったじゃない。私たちは短いと思い込んでいるけれど、ナスミ本人にしたら、フツーの人の一生分と同じくらいの長さを感じていたかもしれないわね」(P203)

 

この考え方が新鮮で好きだった。

それこそ上で言ったように人生は思い通りにならないものなんだから、ナスミのように病気で亡くなることもあれば、本当に急に事故等に巻き込まれて死んでしまうこともある。そんな時に「早い死だったけど、あの人はこんなこともあんなこともしていたね」と言ってもらえる人生だったら、どんなに良いだろう。

 

この小説を読んでいると『死』について自然と考えさせられた。

私にはもう90歳を過ぎた祖母がいるのだけど、かなりボケが進んでいる。ずっと仲が良かった友人が死んでいるのか生きているのかさえも、娘が会いに来てくれてもう帰ったのかただ出掛けているから不在なのかさえも、曖昧ではっきりしない。認知症の症状の1つである妄想もあって、存在しない出来事が祖母の中では存在するリアルな出来事としてあったりする。

「死ぬ時に持っていけるのは思い出だけ」なんて言葉があるけれども、祖母を見ていると思い出さえも持っていけないんじゃないかと思う。

 

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【人間失格】(著:太宰治)

 

人間失格】(著:太宰治)を読了。

小説はまとめて買うタイプの人間だから、時々決め切れなくて「どうせだったら文豪と呼ばれた人の作品を読んでみよう」と有名どころを手に取ることがある。それが今回の『人間失格』である。

 

人間失格』は物語という形を取ってはいるものの、太宰自身のことを書いた自伝であることは有名である。

人間失格』は葉蔵という主人公が、家族の中でありのままの自分で過ごせず、ピエロを演じてしまうのだという主張から始まる。この物語を最後まで読んで思うのは、家族との信頼関係は対人関係の基礎であり根幹であるから、ここでの躓きが彼の生き辛さを作り上げていったということだ。他人の評価に怯え、自分で自分のことさえも肯定できず、安心感のない対人関係の中で彼は大人になっていく。

 

物語の中でも彼が生き辛さを抱えていたこと、現代なら『躁鬱』と診断されていただろうことが読み取れるけれども、彼の他人からの愛情・承認の欠乏は“あとがき“にこそ表れていると思う。

 

あとがきで太宰はこの人間失格に関して、『たまたま見付けた手記を手を加えずに発表した』という意味合いのことを語っている。つまるところ太宰は、人間関係が築けず、薬に溺れ、自殺未遂をしたのはあくまで他人であるのだと“わざわざ”主張しており、自分がそんな人物であると評価を下されたくなかったのだと想像できる。

 

そうしてあとがきには、葉蔵の手記を渡してくれた女性とのこんなやり取りが書かれている。

「あのひとのお父さんが悪いのですよ」

何気なさそうに、そう言った。

「私たちの知っている葉ちゃん(葉蔵:人間失格の主人公)は、とても素直で、よく気がきいて、あれでお酒さえ飲まなければ、いいえ、飲んでも、……神様みたいないい子でした」(P167)

 

「葉蔵=太宰」なのだから、こんなシーンは存在するはずがないのである。

これは太宰治が誰かから言って欲しかった言葉なのではないだろうか。ちょっとナルシズムは感じるけれども、大の大人が欲しがった言葉がこれだと思うと、太宰の孤独感や寂しさの大きさは想像以上のものであり、それは幼少期の頃からの根深いものだったのだと伝わってくる。そして作品完成の1か月後、彼は自らの命を断つことに今度こそ成功してしまうのである。

 

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【幸せの値段】(著:梅田みか)

【幸せの値段】(著:梅田みか)を読了。

 

生きる上で避けては通れないのが“お金”である。どこかの国では若年層の失業者であっても陽気に楽しく生きているらしい記事を読んだことがあるけれども、日本でそう生きられる人間は多くない。一説によると日本人はネガティブな遺伝子が多いから、らしいが政治(社会保障制度)への信頼だったり世間体を気にするお国柄だったりそんなことも理由なんじゃないかと思ったりする。

 

自給自足もしておらず、物々交換、「これ使いこなせなかったのでいりません?」「良いの?じゃあ我が家のコレ要らない?」なんて生活をしていない私は何をするにも、何を手に入れるにも、お金が必要だ。生きるとはお金を消費することとニアリーイコールなのである。

 

どうせあの世に金は持っていけないのだから、毎日贅沢な飯でも食って、使い切ってしまえばいい。でも、これから老いて死ぬまでにいったいいくらかかるのか、それがわからないから好きなようには使えない。死神でもなんでもいい、誰か、俺は何歳で死ぬのか教えてほしい。それさえわかれば、ビクビクしないで金が使えるのに。(P112)

 

私はこの一節には首がもげるほど同意するのだけどそんな人間は私だけではないはずだ。

母親がこれと同じことを言う。お金は持っていけないから全部使っちゃえば良い、と。そんな時に私は「お金を残してくれなくても良いけど、足りなくて困るのはやめてね」と返すのだ。

 

お金というのは、パワーに置き換えられるという。

だから、パワーを貯めておくと安心な人もいるし、パワーは使わなければ意味がないという人もいる。パワーで何でも解決しようとする人もいるし、パワーで人を思いどおりに動かそうとする人もいる。パワーを持つとすぐに無駄遣いしてしまう人もいるし、自分のパワーに振りまわされてしまう人もいる。(P146)

 

お金をパワーに例えているのを初めて見たのだけど、割としっくりきた。特に『自分のパワーに振りまわされてしまう人もいる』という部分が。

 

タイトルが【幸せの値段】なので、いくらあれば幸せが買えるのか考えてしまう。お金なんて無くても幸せになれるとは全く思わないけれども、お金があれば、好きなように使えれば、必ず幸せになれるかと言われるとそんなわけでもない。私が好きな話は1番最後に収録されていた短編なのだけど、タイトルのアンサーもそこに見付けた気がする。

 

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