【心配しないで、モンスター】「それでもいいわ」と言ってくれ

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【心配しないで、モンスター】(著:平安寿子)を読了。

 

背中を押してくれたり、そっと悲しみに寄り添ってくれたり、そんな思い入れのある曲というものは誰にでも1曲くらいあるはずだ。

 

【心配しないで、モンスター】にはビートルズからピンク・レディープリキュアの曲まで、それぞれ曲を心に抱いて生きていく9人のエピソードが綴られている。

 

9つも短編があるので誰のエピソードの感想を述べようか迷うが、1番勇気を貰えた【UFOに乗ってモンスターが行くぞ】の感想を残しておこうと思う。

 

光弘は26歳男性。

19歳の時に罰ゲームでピンク・レディーのコスプレをしてから女装にハマってしまう。女の子の服って繊細で可愛い、メイク道具もキラキラしていて可愛い。

新しくできた彼女には女装が趣味であることを言えずにいたのだが、ある日バレてしまって…

 

ピンク・レディーは全く世代じゃないのだけど、そんな私でも数曲は耳にしたことがあるアイドルだ。

 

光弘が同志(女装仲間)に「バレて、彼女出ていっちゃいました」と弱音を吐いた時に「宇宙人でもいい、モンスターでもいい、透明人間でもいい。阿久悠先生がそう言っていると思ったら目の前がぱーっと開けたんだ」「ピンク・レディーの歌は、世間の普通の型にはまれず苦しんでいる人間みんなのための応援歌なんだ」という言葉を貰う。

 

このシーンがグッときた。

男性がスカートを履きたいとかメイクがしたいとか、大人がキャラクター物を身に付けたいとか、別に誰かの幸せを奪うことでもないのにどうして「それって変だよ」「普通じゃないよ」って後ろ指を指されないといけないんだろうと思うことがある。

個性を尊重しよう、多様性を受け入れようなんて本当どの口が言っているんだ。

 

世間の言う『普通の人生』を歩んだって、その中で競争やマウンティングがあって、満たされて生きていける人間なんてひと握りなわけだしさ、好きに生きさしてくれよって思っちゃう。

 

宇宙人でもモンスターでも「それでもいいわ」と言ってもらいたい人は、一杯いる。そして、そう言ってくれる人も、この世には確かにいる。

だから、UFOに乗ったモンスターのままで、行くぞ、まっすぐに。(P230)

 

オフィシャルな場面では求められる姿があるのは仕方がないと思うのだけど、プライペートでもオフィシャルまではいかずともオフィスカジュアルな人間像を求められる世の中って何とかならないのかなあ。

 

宇宙人もモンスターも人間も「楽しいね」って笑って生きていけたら良いのにね。

周りの人には優しくしよう。宇宙人でもモンスターでも「それでもいいわ」と言ってくれる人はそれ以上に優しく大切にしよう。

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【昨夜のカレー、明日のパン】不格好だから堪らなく愛おしい

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【昨夜のカレー、明日のパン】(著:木皿泉)を読了。

 

例えば、自分が結婚していて、夫と自分と義父と平和に円満に暮らしていたとする。ある日夫が死んでしまって、その時に自分はまだ若くて再婚も考えられる年齢で、だけども義父と2人の生活は共通の悲しみを持っているからそんなに悪いものでもなくて…なんて状態だったら私はどうするだろうか。

 

【昨日のカレー、明日のパン】は嫁のテツコとギフが共に暮らしながら、テツコの恋人や義父のハニートラップ事件を乗り越えて夫(息子)の死をゆっくりと受け入れていく物語である。

 

ギフのハニートラップ事件も、ギフが『自分がまだまだ若いと思えば、テツコさんは安心して家を出られるんじゃないか』『この生活は心地良いがいつまでもこのままではきっとダメだ』と思って起きてしまったことだったりして、そりゃこういう人との生活だったら心地良いし「旦那が死んだからもう他人です、サヨウナラ」とはならないよなあと思った。

 

【夫の墓には入りません】(著:垣谷美雨)も旦那に先立たれてしまう話なのだけど、こっちは『いかに義実家とさっぱりスッパリ縁を切るか』という内容で、あまりの薄情さにテツコと比べるとちょっと笑ってしまう。

記事【夫の墓には入りません】を独身が読んでみた。 

 

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本屋でパラパラと読んだ時にこの文章が気に入って購入に至ったのだけど、全部読んでもこのシーンが1番好きだなあと思う。

ギフとテツコは夜になると、二人きりでよく歩いていた。病院の帰り道だったからだ。

職場と病院と家とを何回も往復したあの暗い道。寒かったし、悲しかったし、二人とも疲れきって口もきけなかった。その時、行く先にポツンと明かりが見えた。近づくと、パン屋だった。もう夜の十二時を過ぎようとしていたのに、中では昼間のように人が働いていた。

テツコとギフが入ると「もうすぐ新しいのが焼き上がりますよ」と店の人に言われ、二人は待った。その時の二人は待つのに慣れきっていた。病院のあらゆるところ、検査結果を聞くための部屋や支払所、手術室、詰所などでひたすら待っていたからだ。

パンの焼ける匂いは、これ以上ないほど幸せの匂いだった。店員が包むパンの皮がパリンパリンと音をたてたのを聞いてテツコとギフは思わず微笑んだ。たった二斤のパンは、生きた猫を抱いた時のように温かく、二人はかわりばんこにパンを抱いて帰った。(P24 一部改変)

 

テツコもギフも1つもセリフがないのに、底知れぬ悲しみとそこから救い上げられるような幸福感があったことが真っすぐに伝わってくる。この胸がぎゅうってなる気持ちって何て名前が付いているのだろう。

 

テツコとその恋人についても語っておきたい。

テツコの恋人はギフのハニートラップ事件に一役買ったことから、テツコとギフが住む家で度々一緒にご飯を食べるようになっていく。

そうこうしているうちに、ご飯を待っている間に家の用事を手伝うようになり、来客用の食器だったのがお揃いっぽい食器を贈られたりする。少しずつ家の中で居場所ができてくる。

 

恋人は未だに遠慮しているのか、その食器は使って洗った後に自分の家に持って帰り、再び来るときに持参しているが、置きっぱなしになり、一緒に住むようになる日もいずれやってくるのだろうと思う。

 

法律上は紙を出した瞬間にスイッチが入れ替わるみたいに家族になるけれど、精神的に家族になるには時間がかかるものだ。一般的には入籍してから家族になっていくカップルが多いようだが、テツコと恋人とギフのような少しずつ少しずつ一緒にいることが当たり前になっていって、いつの間にか家族になっているのも素敵だなあと思った。

 

『入学!』『卒業!』『入籍!』『結婚!』…何でもかんでも人生を派手に飾り立てがちだけれど、本当はそんなことをしなくてもゆっくりと穏やかに、だけど着実に、前に進んで行けるものなのかもしれない。

 

私たちはついついルックス良し、頭脳良し、器量良し、と完璧の方が良いような気がして落ち込んだり僻んだりしてしまうけれど、人間って不完全で歪だから愛らしいんだよなあと改めて思う。

 

完璧な人間は誰一人出てこないけれど、どのキャラクターも幸せを祈ってしまうぐらい愛らしかった。

 

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【ブエノスアイレス午前零時】の感想と言うより、ほぼ純文学について

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ブエノスアイレス午前零時】(著:藤沢周)を読了。

ブエノスアイレス午前零時』は第119回芥川賞(純文学の新人に与えられる賞)を受賞している作品なのだけど、私に芥川は未だ早かった気がする。

 

東京からUターンしてきて、閉塞感、物足りなさ、やるせなさを感じている主人公が、盲目で痴呆のある老嬢と田舎の温泉旅館にあるダンスホールでタンゴを踊る。

 

リアルか妄想か『かつてはブエノスアイレスの地でダンスを踊り、男と寝所を共にすることでお金を稼いでいた』らしい彼女の手を取り踊った時、2人の間にはぶわりと淫靡な香りがわきたち、2人の意識はブエノスアイレスへと運ばれていく。

 

ディズニーとかでありそうな、ボロ着のヒロインと平民に扮装している王子が手を取って踊ったら、あら不思議!ドレスアップしてお城で踊っているような感覚に…という描写の文章バーション。

 

「だから何なの?」と言われると、ここが純文学の難しいところで。

純文学って『リアルと幻想が入り混じるのってロマンティックでしょ?』なんて狙いがあって書かれるものではなく、『リアルと幻想が入り混じるような感覚をどのように表現するか?』に重きを置かれる文章だから、そこに意味やエンタメ性は無いのです。

 

つまり、後者はヒロインとヒーローが運命を感じるために必要なキラキラした描写だけど、純文学では運命の相手じゃなくてもこういうことがあれば書くし、それよりもその感覚をどう表現しているのか、を楽しむ文学なのである。

 

そういう観点では『ブエノスアイレス午前零時』は、ブワッとわきたつセクシーな感じだったり、ブエノスアイレスを偲んだり、そういう気持ちが伝わってくる作品だったと思う。

 

ストーリーがエンタメに富んでいる面白い純文学もあるのだけど、純文学のメインはストーリーではなく登場人物たちの心理や思考の表現のされ方。

それゆえ物語を追っていた読者は「ん?この物語は何が言いたかったの?」となってしまい『つまらない』という評価をされがちなジャンルだったりする。

 

かくいう私も、純文学というとどこか小難しく、ノルタルジーを感じさせる古臭い作品ばかりのイメージを持っていたのだけど、2020年の芥川賞は『推し、燃ゆ』という大好きな芸能人を推す心情を綴った作品が受賞したことで、随分と純文学が身近になった気がした。

 

題材が今っぽいだけで、こんなにも壁を感じなくなるものなのだなあと受賞のニュースを観ていて思った。

 

…いや、これ何の感想?

 

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【22年目の告白】あのニュースを思い出し、そして本の真価を考える

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『22年目の告白‐私が殺人犯です‐』(著:浜口倫太郎)を読了。

 

『私が殺人犯です』というのは、小説内で出版された連続殺人事件の犯行を告白した手記につけられたタイトルだ。

 

殺人犯が手記を出すというのは、元少年A(酒鬼薔薇聖斗)の『絶歌』のオマージュだと思っていたのだけど、調べてみると『22年目の告白』は韓国映画をリメイクしたもので、実はこっちの方が先だった模様。

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『絶歌』の著者である元少年Aと(小説内の手記)『私が殺人犯です』の著者の違いは、前者は逮捕され法の裁きを受けているが後者は時効が成立し罪を償っていないという点である。

 

『なぜ逃げ切ったはずの殺人犯はわざわざ手記を出そうと思い立ったのか』はミステリーの大事な部分なので言及を避けるとして。(あとあんまりミステリーとして好きな手法じゃなかったっていうのもある)

 

ただこの作品が、殺人鬼サイドの視点ではなく、手記を出版する編集者サイドの視点で進んで行くという点は個人的に面白かった。

 

この編集者は本が好きで編集の仕事に就いたのだけど、力作だと思った小説が売れずに、小学生の日記みたいなタレント本が売れていく現実に嘆いたりしていて。

 

そんな中で降ってわいた『時効で罰を逃れた殺人犯が書いた手記』を編集する仕事。

 

「自分が作りたかったのは人を幸せにできる本」「殺人鬼の手記なんてどれだけの人が怒り、悲しむのだろう。」と彼女は前向きな考えを持っていなかった。

しかしながら彼女の心をこの手記は大きく揺さぶることとなる。それはその手記が文学としてすごく優秀だったからだ。

 

本としてはすごく良い、話題性もあって絶対に売れる、だけど…。

興奮、葛藤、後悔、殺人犯と接する恐怖、目まぐるしい感情の変化で退屈することなくページを捲っていった。

 

本作の中で、編集者が殺人犯に人を殺した理由を尋ね返ってきた返答が強く印象に残っている。

「殺人事件が発生するとマスコミ、識者、学者、ありとあらゆる人間がその動機を推察しますが、どれもこれも的外れだ。当たり前です。人を殺したことがないものに、どうして人を殺す動機がわかるんですか?とんだ笑い話だが、誰もそれを指摘しない。おかしなものです」(P92)

 

本当に勝手な解釈なのだけど、私はこの本は「良い本が売れない」とか「話題性が何より大事で内容は二の次」とか、出版業界にある癌みたいなものを主張した作品なのだと思っていた。

 

だから殺人犯のこの返答を読んだ時に、『周りは売れりゃ良いと思っているかもしれないけれど、話題性のある本じゃなくて(自分にとっての)良い本が書きたいんだよ』みたいな作家のメッセージが隠れているんじゃないかって深読みしちゃって。

 

だけど、調べてみたらこの作品の始まりは韓国映画だったわけじゃないですか。

この本って映画から小説版に書き下ろされただけで、作者の浜口倫太郎さんの内なる叫びじゃないんだよなあって思ったら「何だよ、それ」って気持ちでいっぱいになってしまった。まことに勝手ですけど。

 

作品自体は読みやすく、驚きもあり面白かったです。

ごちゃごちゃ調べなきゃ『面白かった』で終われたのに、余計なことをしたなあと後悔。

 

昔テレビ番組で本屋の店員さんが『どんな本が売れますか?』って質問に「芸能人が読んでますって言った本が売れます」って仰っていたのがすごく記憶に残っていて、どれだけ良作でもこういう”運”みたいなものに恵まれなくて、評価されることなく消えていく作品がたくさんあるんだろうなと思うと少し寂しくなった。

 

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【ゆれる】だから嫌なんだ、家族って集合体は。

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『ゆれる』(著:西川美和)を読了。

 

父親と折り合いが悪く田舎を飛び出した奔放な弟・猛、家業を継いで田舎に残った実直な兄・稔。そして幼馴染の智恵子。

3人でいた時に、智恵子が橋から落下し死んでしまう。稔は智恵子を突き落として殺したと裁判にかけられ、弟の猛は兄を無罪にしようと動く。

 

これだけを読むと美しい兄弟愛のように感じるけれど、『兄を無罪にしたい理由は、殺人犯の弟になりたくないだけじゃないのか』と思えてくる描写だったり、容疑をかけられている兄が裁判の結果はどうでも良さそうだったり、ザザッと書いたあらすじとは裏腹に序盤からお腹の奥が冷えるような不穏さが立ち込めている。

 

稔と猛。2人とも主人公のようなものだから、大抵の人はどちらかの立場に没入するだろうと思うのだけど、一般的にはどっちが多いんだろうか。私は100:0で”稔”だった。

 

私ね、日本の我慢や努力を美徳だとする風潮って悪魔みたいだなあって思ったりする。

人の何倍も努力したって、評価が得られないことや結果に繋がらないことなんてザラにある。その一方で少ない努力で、下手をすれば努力さえ無しで、私が欲しているモノを与えられる人もいる。ただただ運やタイミングに恵まれないことだってある。

 

なのに「努力をしていない」「頑張りがたりない」って。うるせー!

 

それに気が付いてからは”損切り”って言うんですかね。これ以上頑張るの馬鹿馬鹿しい!って思ったら手を抜くことを少し覚えたりなんかして。

 

そういう努力信仰に苦しんできた過去があるから、

「お前の人生は素晴らしいよ。自分にしか出来ない仕事して、色んな人に会って、いい金稼いで。俺見ろよ。仕事は単調、女にはモテない、家に帰れば炊事洗濯に親父の講釈、で、その上人殺しちゃった、って何だよそれ」

「やめてくれ、それは違う」

「違わないよ。何が違うんだよ。何でこんなことになっちゃうの?俺わかんないよ。何にもいいことないじゃない。ねえ、何で?何でお前と俺はこんなに違うの?」(P160)

 

この叫び、すごくよく分かる。”何にもいいことないじゃない”って部分が個人的には特にツラい。

 

稔の「あのスタンドで一生生きていくのも、檻の中で生きていくのも大差ないな。馬鹿な客に頭下げなくていいだけ、こっちの方が気楽だあ」ってセリフは半分強がりで、半分本心だと思った。

 

檻の中に入ってもどうってことないなんて、そんなことは絶対に思えない。だけど、それぐらい自分のこれからがもうどうでも良いって気持ちを私は知っている。

 

結局のところ稔は有罪になり服役することになる。そして数年が過ぎた出所の日。

稔は弟の猛の存在に気が付いて逃げ出すように小走りで駆ける。追いかける弟。

「兄ちゃん、うちに帰ろうよ!」

大きな荷物を抱えた兄は、弟に微笑みかけたように見えた。

そして息をつく間もなく、徐行して兄の前に止まるバスが、兄弟の間を遮ってしまった。(P225)

 

ここで物語はブツッと終わる。

バスが過ぎ去った後、兄・稔はそこに留まっているのか、それともバスに乗って行ってしまうのか、その結末は読者である私たちに委ねられている。

 

私が稔だったら家には帰らないな。

やっと”正しい長男”から解放されたんだもの。もう勘弁してくれって感じ。

…となると”微笑んだ”のではなく”嘲笑った”のだな、私の解釈では。

 

2パターン用意されている香川照之のあとがきも最高だった。

実写映画化の稔が香川照之だったと知った時、私は稔を薄い顔でイメージしていたから合わないなあと思ったのだけど、あとがきがまるで稔本人のような語りだった。相当、役を作り上げていることがたったの数ページで伝わってくる文章だった。あぁ、また1つ触れておきたい映画が溜まってしまった。

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【白河夜船】眠りにつくとき、少しでも穏やかでありますように

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【白河夜船】(著:吉本ばなな)を読了。

 

正直言うと、いまいち理解が及ばなかった。色んな人の感想を漁ったら「親しい人を弔ったら理解ができるようになった」とあったので、私にはこの本を理解するには欠かせない経験が足りていないのかもしれない。

 

実は【白河夜船】が刊行されたのは1992年で、いまから30年近くも前のことである。それを知ったときビックリした。

彼女がしていたのはただ客と「添い寝」をする仕事だ。

「私の所へやってくる人は、ものすごくデリケートな形で傷ついて、疲れ果てている人ばかりなの。自分が疲れちゃっていることすらわからないくらいにね。それで、必ずと言っていいほど、夜中に目を覚ますのよ。そういう時に、淡い明りの中で私がにっこり微笑んであげることが大切なの。」(P22~24 一部改変)

 

これって所謂ソフレ(添い寝フレンド)の金銭のやり取りがあるバージョンだと思うのだけど、30年も前から”1人で眠るのが怖くて寄り添う存在を求めている人がいる”って視点を持っているなんてすごいなと思った。

 

数年前にTVで「マジで寝るだけの友達なんですよー」と若者がケラケラ答えているのを観て、ソフレという関係性に不健全というか距離感がバグッている印象を私は持っていた。

 

だけど、眠るときにすーっと深いところへ落ちていくのが好きな人もいれば、それがとてつもなく怖い人もいて、暗い闇に落ちていくような夜(眠り)に誰かがそばにいて欲しいって人は一定数いるのだろうなと本書を読んで思った。

 

私は”起きるのが怖い”と思ったことはあるけれど、”眠るのが怖い”とは思ったことがない。むしろ全ての感情がシャットダウンできる時間だから好きだ。嫌な感情が消えなければもう寝てしまおうと思う。こういう感覚の違いでこの作品の理解が進まないのかなと推測した。

 

【白河夜船】を読んで【世界がもし100人の村だったら】がこんな文章で始まったのを思い出していた。

「今朝、目が覚めたとき あなたは今日という日にわくわくしましたか?

今夜、眠るとき あなたは今日という日にとっくりと満足できそうですか?」

※とっくりと=十分に

 

世界がもし100人の村だったら】を読むと信仰を強制されることもなく、教育も医療も十分に受けられて、日本は何て恵まれているんだと改めて思う。

 

何かさ、みんな理想が高くない?評価が厳しくない?いつもと変わらない日常に点数を付けるとしたら何点をつける?

 

私は50点じゃなくて、70点ぐらいつけても良いんじゃないかと思う。平凡な日というのは何事もなく”無事に終わった”1日なのだから。

 

今日は50点だったと思って眠るのと、70点だったと思って眠るのでは、不安の大きさが全然違うから、夜が怖い人はやってみて欲しい。

 

ちなみに私の今日は72点でした。では、おやすみなさい。

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【おくりびと】致死率100%の人生の答え合わせ

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おくりびと】(著:百瀬しのぶ)を読了。

数年前にテレビCMを観たことがあるので映画化していることは知っているけれど、観たことはなし。

 

楽家としての人生に夢破れ、生活のために辿り着いた仕事は”納棺師”

納棺師とは遺体を綺麗にしたり、顔にメイクを施した後に、故人を棺に納める仕事である。

 

納棺師をしていると知るやいなや、子どもを隠すようにして離れていく元同級生、実家に帰ってしまった妻。

 

『職業に貴賤なし』というほど崇高な考えを持っているわけじゃないんだけど、私は友人・知人がフリーターだろうが、夜職だろうが、ラブホ社員だろうが、あんまり興味がない。

だから『納棺師』という職業はそれほど嫌がられる仕事なのだろうか?とまずそこがピンとこなかった。

 

死者に触れるという点では、死体解剖医もそうだし、看護師だってそういうことがあるだろう。死刑執行人も当てはまるのかな。

 

嫌悪どころか、人はいずれ必ず死ぬのだから、こうやって綺麗にしてあの世へ送り出してくれる納棺師という仕事に感謝はあっても、差別的な感情は浮かんでこない。

 

私は「自分の死後はどうでも良いよ。墓もいらん。適当に焼いてくれや」って考えの人間だけど、もし自分の大事な人がそんな考えだったら少し悲しい。ちゃんとしてあげたいのに…って思う。

 

そういう意味では、納棺師という仕事は遺された人がちゃんとお別れができるように存在する、死者のためというよりはむしろ生者のためにある仕事なのではないだろうか。

 

『人は与えたものが返ってきます』なんて人生語録があるけれど、有形でも無形でもどれほど人に与えてきたかは死に際や死後に分かるものなのかもしれないと思った。

 

棺にも色んな種類(価格帯)のものがあるのだと主人公が気が付くこのシーン。

「棺にもいろいろあるでしょう。右から五万、十万、一番左が三十万」
「何がそんなに違うんですか?」
「右のは合板で、次が総檜の窓付き。高いのには彫刻が入っているでしょう?」
「素材と飾りの違いだけですか?」
「そう。燃え方もおんなじ。灰もおんなじ。人生最後の買い物は、他人が決めるのよ」(P63)

 

『もう死んだんだからどれでも良いでしょ』と思われるか、『最後だから良いものを』と思ってもらえるか、この瞬間に他人とどう関わってきたかのジャッジが下される気がした。

 

「もっとマシな仕事に就けよ」と吐き捨てるように言った友人。「触らないで!けがらわしい!」と拒絶した妻。

 

主人公の妻も友人も、自分の親しい人が納棺される様を見てやっとこの仕事の尊さに気が付くなんて、なんて想像力のない人たちなんだろうと溜め息が出る。

 

さらに時は過ぎ、主人公が自身の大事な人を納棺する時に妻が汗をぬぐってくれるシーンがあるのだけど、神聖な行為をしている最中なのだから触らんでくれ!と思ってしまった。

 

私が読み取れなかった行間に、互いの理解や尊敬や親愛の回復があったのかもしれないけれど、私の中では妻の仕事に対する理解は仕事の最中に手を出してよいほど深くなっていない。

 

そういう意味では、主人公もその妻も心理的な葛藤やそれを乗り越えていく描写があまりにも足りなくて、いち読書としてはグッと感情移入しきれない物足りなさがあった。

 

映画版の評価がすごく良いので、時間を作って観てみようと思う。そちらで文章で取りこぼしてしまったことを改めて感じられたら嬉しい。

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