『ゆれる』(著:西川美和)を読了。
これだけを読むと美しい兄弟愛のように感じるけれど、『兄を無罪にしたい理由は、殺人犯の弟になりたくないだけじゃないのか』と思えてくる描写だったり、容疑をかけられている兄が裁判の結果はどうでも良さそうだったり、ザザッと書いたあらすじとは裏腹に序盤からお腹の奥が冷えるような不穏さが立ち込めている。
稔と猛。2人とも主人公のようなものだから、大抵の人はどちらかの立場に没入するだろうと思うのだけど、一般的にはどっちが多いんだろうか。私は100:0で”稔”だった。
私ね、日本の我慢や努力を美徳だとする風潮って悪魔みたいだなあって思ったりする。
人の何倍も努力したって、評価が得られないことや結果に繋がらないことなんてザラにある。その一方で少ない努力で、下手をすれば努力さえ無しで、私が欲しているモノを与えられる人もいる。ただただ運やタイミングに恵まれないことだってある。
なのに「努力をしていない」「頑張りがたりない」って。うるせー!
それに気が付いてからは”損切り”って言うんですかね。これ以上頑張るの馬鹿馬鹿しい!って思ったら手を抜くことを少し覚えたりなんかして。
そういう努力信仰に苦しんできた過去があるから、
「お前の人生は素晴らしいよ。自分にしか出来ない仕事して、色んな人に会って、いい金稼いで。俺見ろよ。仕事は単調、女にはモテない、家に帰れば炊事洗濯に親父の講釈、で、その上人殺しちゃった、って何だよそれ」
「やめてくれ、それは違う」
「違わないよ。何が違うんだよ。何でこんなことになっちゃうの?俺わかんないよ。何にもいいことないじゃない。ねえ、何で?何でお前と俺はこんなに違うの?」(P160)
この叫び、すごくよく分かる。”何にもいいことないじゃない”って部分が個人的には特にツラい。
稔の「あのスタンドで一生生きていくのも、檻の中で生きていくのも大差ないな。馬鹿な客に頭下げなくていいだけ、こっちの方が気楽だあ」ってセリフは半分強がりで、半分本心だと思った。
檻の中に入ってもどうってことないなんて、そんなことは絶対に思えない。だけど、それぐらい自分のこれからがもうどうでも良いって気持ちを私は知っている。
結局のところ稔は有罪になり服役することになる。そして数年が過ぎた出所の日。
稔は弟の猛の存在に気が付いて逃げ出すように小走りで駆ける。追いかける弟。
「兄ちゃん、うちに帰ろうよ!」
大きな荷物を抱えた兄は、弟に微笑みかけたように見えた。
そして息をつく間もなく、徐行して兄の前に止まるバスが、兄弟の間を遮ってしまった。(P225)
ここで物語はブツッと終わる。
バスが過ぎ去った後、兄・稔はそこに留まっているのか、それともバスに乗って行ってしまうのか、その結末は読者である私たちに委ねられている。
私が稔だったら家には帰らないな。
やっと”正しい長男”から解放されたんだもの。もう勘弁してくれって感じ。
…となると”微笑んだ”のではなく”嘲笑った”のだな、私の解釈では。
2パターン用意されている香川照之のあとがきも最高だった。
実写映画化の稔が香川照之だったと知った時、私は稔を薄い顔でイメージしていたから合わないなあと思ったのだけど、あとがきがまるで稔本人のような語りだった。相当、役を作り上げていることがたったの数ページで伝わってくる文章だった。あぁ、また1つ触れておきたい映画が溜まってしまった。
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