『神様のすること』平安寿子 読み終わりました。
私はまだ、親の介護や死を経験したことがありません。考えたこともありませんでした。
でもそういう今だからこそ手に取ることが出来てよかったなと思える作品でした。
親の介護って考えたことありますか?
親の死について兄妹で話したりしますか?
『神様のすること』は平安寿子さん自身の介護と肉親との別れを綴った私小説です。
10年、20年先を少し考えてみる良いきっかけになりました。
では『神様のすること』平安寿子の感想です。
『神様のすること』あらすじ
物語を書くことにしか情熱が持てないわたしが四十歳間近で願ったこと。それは、〈二親を無事に見送ること〉と〈小説家になりたい〉という二つ。
なんだかんだあったけど、神様は、わたしの願いを聞いてくれた。でも、ただで叶えてくれたわけではない―――。
誰もが経験する肉親との別れを、ペーソスあふれる平節で綴った、笑って泣ける超私小説 。
【ネタバレ有り】『神様のすること』感想
七十七歳の母が倒れた。
三日後、意識を取り戻した母は「八十三まで生きることにした」と口にした。「近くまで行ったのに、帰された」と。
せっかちな母のことだから、あちらの窓口に早く行き過ぎたのかもしれない。ともあれ、”わたし”は「母の寿命は八十三」と考えて過ごすことにする。
『神様のすること』はそんな母が死を迎えるまでの、母と”わたし”と家族の物語である。
『親の死』がメインテーマである作品は読み手の年齢、介護経験の有無、によって抱く感想が大きく違ってくると思う。
ちなみに私は20代、介護経験なし、両親健在、兄がひとり。
こんな私が述べる感想は「親の死」や「介護」が想像でしかないことを初めに明らかにしておきたいと思う。
生きているうちに”偲ぶ”ことのできる幸せ
危機を脱して意識を取り戻した母は奇妙な混乱状態にあった。
急に歌を歌ってみたり、踊ってみたり。あるときには若かれし頃の母、あるときには鬱だった時の母が顔を出すのだ。
そんな母を見て”わたし”が「今日は~歳くらいの母だな」「あの頃の母はこんな感じだった」と思い返すシーンがある。
『生きている人の生き様を思い返す』ということはそうそうない事だと私は思う。”偲ぶ”のは、それこそ故人を思う時くらいではないだろうか。
「両親の死」というものに直面した時、私も両親が辿った人生を懐かしんだりするのかもしれない。
”わたし”が母親が生きているうちに偲ぶということが自然にできたのは、もしかするとうらやむべき環境なのかもしれないなと思う。
介護をする人間の中に存在する天使と悪魔
母が八十三歳を迎えた。しかし母は生きている。
「母は八十三で死ぬ」と思っていた”わたし”はこんなことも考えるようになる。
母が死んだら、もう見舞いに行かなくても良くなる。医療費の支払いもなくなる。時間的にも経済的にも、ものすごく助かる。
こっちも歳食ってきて、体力の減退をひしひし感じている。
しかし、すぐにそんなことを考えた罪悪感が、道徳を説く。 (P.63)
思わずハッとなった。
『介護が終わる=親の死』と当たり前のことが私は頭から抜け落ちていた。
「介護疲れた、楽になりたい」という言葉を発するのに罪悪感を感じる人がいるんだと初めて気が付いた。
期限が分からないって苦しいな~。
偶然、手を抜いた次の日に逝ってしまったらすごく後悔するんだろうし
ずっと100%で…ってそれも「いつまで?」って思っちゃうだろうし
「楽しちゃえよ~」「何かあったら後悔するよ」
って天使と悪魔がずっとやり取りしてるって考えると精神的疲労も計り知れない。
神様のすること
人は自らの死に直面した時”戻りたい時代”を懐かしむものなんだそうです。
そして、どの時代を懐かしむとか、どのような死を迎えるだとかは神様のする(決める)ことらしいのです。
願わくば、思い起こす時代が、死の直前だったらいいな~。
「今が一番幸せよ」って死んでいきたい。
でもぐだぐだ言ってても仕方ないね。だってそれは神様のすることなのだから。
だからこそ、いつ何時も全力で過ごしなさい。
そんなメッセージが込められている作品でした。
親の死や介護に直面する前に、手に取ることができて良かったです。